昭和44年9月4日 朝のご理解
御理解第28節「病人や代々難儀の続く人が神のおかげを受けるのは、井戸替えをするのに八、九分かえて退屈してやめれば掃除は出来ぬ。それでやはり水は濁っておるようなもので、信心も途中で止めれば病気災難の根は切れぬ。井戸は清水になるまで、病気災難は根の切れるまで、一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」
今日の、この28節のご理解して頂くところですけれども、まあ、結論を先に申しますと、信心はどのような場合でも喜ばせて頂けれる稽古だという事です。信心はどのような場合でも喜ばせて頂く稽古だと。そうだと分からせて頂いたら、信心がいわば、有り難いものになり楽しいものになり、成る程、難しい稽古ではあるけれども、難しければ難しいほど、やはり稽古の楽しみというものが頂かれ、感じられるものだという事が分かります。
ところが、信心とはやはりおかげを頂くものだという観念が強いですよね。皆。自分の知恵力で出来ないところを神様からおかげを頂くのだと。おかげを頂く為に信心をしておるのだと。いわゆる観念が強いところに私は八九分変えて退屈して止めたり、退屈をしなくてもそこから、いうならなんというですか心が暗くなったり、これほど信心するのにといったような不足が出たりするのではないでしょうか。昨日、福岡の高橋さんがお参りさせてもらい昨日朝御祈念すんだ後に参って見えられまして、まあ、高橋さん中々お届けがいつも赤裸々ですし、実に正直です。みんなやっぱ同じような事ではなかろうかと思うのですけれども、そういう風に赤裸々にまたは正直に御届けをする人が少ない。というのはその、前日が野球があることになっておりました。弁当の注文がこれくらいあっておりますからというお届けでありました。なるほどお取次ぎをさせてもらっておかげを頂くようにお願いをさせて頂きよりましたら、弁当を作り上げてしまって、業者の方へ収めたのです。収めると同時に夕立だったわけですね、福岡の方は凄い夕立だったそうです。ここもひどかったですけれども、ね。それでその、野球が中止になってしまったわけです。そういう時にですね、中々喜べというても中々喜べませんよね。まあ、何とか、作る前に夕立があるとか、野球が済んでから夕立があるとかすればよいのですけれども、もう、収めてしまって、しかも今から始まろうかと(?)もうぼちぼち入ろうとする時分からの夕立である。お願いしとったのにという気持ちもおこるでしょう。それだけならまだよかったのでしょうけれども、帰ってきたところがまあ一番そこでは、何というのでしょうかね、信心もありません、小僧さんというのはもう年をとっておりますけれども、まだ、一人前の職人ではないです。人がありますが、今日は金光様にあなたは、お尋ねしてからじゃなかったですかとこういわれる。もうそれこそ、そうではなくても、ちったもやもやしておるところに持ってきてから、そういわれたのですね。まあ色々、信心の説明を理屈の上ではよく分かっておるのですから説明をしたのですけれども、どうも、昨日、一晩休ませてもろうて昨日参ってくるまですっきりしないわけですね。これはもうまあ、ほとんど今合楽でおかげを頂いておる人達がまあほとんどがそうじゃなかろうかと思いますよね。例えばそういう自分が立場に置かれたときです、ね、それがそのどういう事かと申しますと、信心というのはね、信心のないものよりもおかげを頂くというね、信心してそのおかげを受けるために信心をしているという観念がとても強いからではなかろうかと思うのです。
ね。例えばまあ、( ? )例えばその置いた物を取るようにもう本当に神様の間違いなさが現れてくる。続きますと信心のないなら、高橋さんがですよ店員さん達にですよ神様間違いなかろうがといったようなこともやっぱいうておられるのじゃなかろうかと。ね。ですから、その反対になった時に、そのまあいわばひね、とじゃないかもしれんけれども、ひねくれたように感じるわけなんですね。いうならば痛いところをつかれたわけなんです。「今日の弁当作りは金光様にお尋ねしてからではなかったですか」とこう言われる。ね。中々その信心を頂いておって、難しいところなんですよね。そこのところが。皆さんならどうでしょうか。ね。神様にお願いをさせて頂いておるからおかげを頂くと。と例えばその確信の似たような思いでやってのけれる時もあるけれども、その確信が根底から崩れるように、ね、どうして、または言い訳もないような立場に立たせられる時がある。そういう時にですね、まめで繁盛するよう元気な心で信心せよと仰るその元気な心というものを、が、養われておかなければならんと思う。
ね。本当に神様の働きが一分一厘間違いなくこのように願った以上、思った以上におかげを受ける時には自ずと元気が出て参りますよね。ところがなら、それとは反対の時、いうならあれだけお願しておったのにというような時、ね、だから信心が難しいというのはね私はその、そういう事が難しいのだと思う。ね。信心はね、今日の結論を先に申しましたように、信心とは、どのような場合でも喜ばせて頂く稽古だと。そこにすっきり焦点が置かれておりますとね、元気な心でそれをどっこいとそれを受けていく送り合わせを頂けれるのでしょうけれども、何とはなしに信心しよるから拝みよるからお願しよるからお取り次ぎを頂いておるからやはり、信心のないものよりもおかげを頂けれるということを心の中に重くおいておる。それがそのような場合にそんな事になってくるのでしょう。
その事を( ? )頂いてからこちらの心まで暗くなると、まあ、私が申しました方が本当な事のようですけれども、私の心の中にはねまだ修行不足修行不足という気持ちがするのですよね。高橋さんに対して。もう私達はもう理屈抜きにしてから、もう理屈抜きにしてからもうおかげと頂けれるだろうとこう私は思うのです。これはまだ信心の稽古不足。というてその、それではなくて心がイライラモヤモヤしておる時ですからはあ、やっぱあんたの信心修行不足ばいと、言うたらまたモヤモヤしようと思うてからまあ黙って、聞かせて頂くわけですけれどもです、けれどもやはりあれほどしの信心が出来ておってそれであるから、皆もやっぱりそうではなかろうか高橋さんのように赤裸々にまたはお届けをされるしないだけのことであってね、本当いうならばやっぱ皆自分の思いにならんときにはどうしたわけじゃろうかどうしてですかと言いたいものがあるのがやはり本当じゃなかろうか。ね。ただ、昨日もやっぱり野球があっておるんですよ。それで私は申しました。今日は( ? )。そりゃおかげになるようにお願致しましょうと。そして、言いました。「言うたっちゃ、三日夕立ちいうけんで」ち私がそれだけ付け加えた。(笑)昨日は夕立(?)恐らく帰ってもしなかっただろうと思いますから、まあそれをまともに受けとれりゃ「先生が夕立ちゃ三日夕立ち言いなさったから、今日も夕立がするかもしれんから」と(?)一つ作ろうと思われたか、どういう風にそこに、受けられたか今日はみえ、頂かれませんけれどもですね、中々その、お取り次ぎの微妙さというかね、微妙なところだとこう自分で思います。本当に自分の願いというものが立てられてそれに、慢心する。その事を願いとして一生懸命の修行をすると。結構ですけれども、願いそのものがね、願いそのものが私は本当に神様にお喜び頂けれるような願いかどうかと言うことを一遍、きちっと検討つけてからね、打ち込むなら打ち込まなければいけないと思う。
ね。自分のそれが我情であったり我欲であったりという事にです、私はその、打ち込んで願いを立てるといったような事はね、どうだろうかと。なるほど神様が地団太を踏むようにして願う、すがるからおかげを下さることもあろうけれども、やっぱり神様がおかげを下さらない、もうお前の信心(?)そんな事をいつまでも願うのかとむしろお気付けを頂くくらいじゃないかとこう思うのです。だから一つの願いを立てる、そのことを一生懸命に願うというようなところの信心がやはりもう少しすっきりと本当なことになってこなければいけん。高橋さんのそのお取り次ぎをさせて頂きよる時に私が頂きますのが、私のそこの控えの向こうに手洗いがございますよね。梅鉢の紋が入った手洗いが。あそこは年中ずっと少しずつ水が出ておるわけなんです。で、綺麗な水が出ておるのです。お恵みの水というのはもう、限りなく出ておるわけなんです。ところがです、二三日も洗わないでおきますとその綺麗なお恵みの水でありましても、もうそれを、口をゆすいだり飲んだりするのは嫌なくらいに中に水垢がつくのですよ。
その、あの、手洗いを頂きました。ですから、はあ、お願いをしておかげを頂く事は、本当におかげを頂く、お恵みの水がでっぱなし。けれどもやはり、時々にはね、空にして水こけを洗い落とさなければならないという事もあるという事ですよね。けれども、合楽の方達はそのくらいな説明では、納得しないようですね。やはり何かに触れなければ。説明だけではいけん。そちゃ、おかげを頂かなかったのはこういうわけだと。そのわけを聞いただけでは納得できない。本人がそのような時にこれをどう喜びで頂こうかとする一心に、元気な心というものがですね、そこから本気で助かろうとする姿勢がない限りですね、御理解をゆうなら噛んでふくめるように頂いても先生がそげんいいなさるばってんといったようなものしか残らないのではないかとこう思うです。
そこで私はまあ思うのですけれどもね、その、願いが願い通りにおかげを受ける時には用心が必要だと。ね。願っても願っても右と願えば左、左と願えば右といったような時こそ、本当のことを神様の願いが成就しておる時だと。ね。そこから私は思いもかけなかったと、思い以上願い以上それこそ夢にも思わなかったといったようなおかげが展開してくるならそういうおかげをもって本当のおかげだと思う。言う一つの根本原理とでもいうものですかね、おかげの。そういうような事がすっかり私は体験つけられるというか分っておらなければならない。ね。勿論ですからそういうそのね、右と願っても左左と願っても右といったような時にです、その、受け心というか体制というものはそれをまあ、簡単に御道流に申しますと神様のご都合に違いはないと言うことになる。その神様のご都合に違いは無いと言えれることの為に元気な心で一心に信心をしておかんとです、そういうすっきりとしたものになってこない。どういうわけでしょうか。それは神様のご都合じゃろう。ある人が、ある教会におかげを頂いて、「もう内の先生はどげな事お届けしたっちゃ神様のご都合、どげなご都合ですかと聞こうごたる」ち。「もう、神様のご都合でごまかしてしもうてから、もう」ち言うてから腹かいてここで言われた人があるんです。ですからその先生自身も神様のご都合がどうか分らんなりに、まあ、神様のご都合じゃろうなといいよなさるのか、本当にご都合と分かってご都合といいよるなさるのか、例えば私共としてもです、やはり神様のご都合と本当に分かる為に一心の信心が元気な心で出来ておかなければならんと言うことです。ここは理屈じゃない。
こういう事になっていきよるのに私の心の中にはこういう喜びというか元気な心というかかえってファイトが出来てくる。もりもり力がどっかから湧いてくる。まあ私共過去の信心を思いますとそういう感じでしたね。ですからここのところまでは一つお互いが一生懸命の信心をさせてもろうて、頂けれるおかげを頂いておかんと元気な心で受けなければいかん時にどうもすっきりしない、モヤモヤ、そしてどうしてといったような心が赤裸々にいうとですね、どうした事だったでしょうかというような事になる。
ここんところをどう言う風に受けたらよいでしょうかと、というような事になる。それはそれを例えば高橋さんの場合なんかそれを知ってあるわけなんですよね。これを大体元気な心で喜んで受けんならんことは分っておる。ばってんそういうわけにはいけん。そういうわけには受けられん。だから何かそこにヒントを与えて頂いたらそれが有りがたく受けられるような感じがする。けれどもそれはこういうような、お恵みの水がおかげは頂きっぱなしだけれども、ね、時々はやっぱり犠牲をはらって水こけを落として洗うようなこともあるよと説明を受けただけでなら、すっきりするかというたら、すっきりしない。翻然としたものになってこない。そのへんのところがですね私はやはり難しいというなら難しいのだ。ね。信心はね、いつでも喜べれるどんな場合でも喜びで受けられるいわば稽古。そこで、「此の方の道は傘一本で開く事が出来る」とまたの御理解にあります。ね。そういう時にですね、そういう時にスキッと受けれるおかげを頂かせてもらう、稽古が出来ていきよって初めてです、もうこれは大変なことぞと、信心とは大変なことぞと、大変なおかげを頂くぞと。いわば確信される、信心がいわゆる安心の出来られるおかげが受けられるとこう思う。または次の御理解に「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのは難しい」とね。というような事も言えるのではないかと思う。ね。例え一時は難しい事があっても辛抱して行く間に徳が受けられると。そういうようなところをです、ね、不平もいいたかろう、不足もいいたかろうけれどもじっと辛抱して神様にすっきりしないその気持ちをじっと辛抱して神様へ向けていくうちにです徳が受けられる。ね。
そこから私はあの、喜びを受けられるというようなものがやはりお徳を受けなければです、受けられんのじゃないかとこう思う。もうその辺はやはりだから理屈ではない。やはり心の中にもたもたしたものを感じたり、ね、またはすっきりしないものを感じた時にお徳を受けておらん証拠をひとつ分らせてもろうて、お徳を受けるための信心。そこをじっとやはり辛抱させて頂く信心、いわゆるその事を大事にさせて頂く信心。そういうすっきりしないそういう時にです、また、それこそ泣き面に蜂のように「大将、今度のことは神様にお願してなかったですか、お尋ねしてから作りなさったてすか」といわれるような事があってもです、そこに(?)私は辛抱させてもらう。実にすっきりしない話しである。すっきりしないけれども、すっきりしないその事を大切に取り扱わなければいけんと。そこを大事にしていかなければいけんと。ね。信心は難しいというなら他のことじゃない。その事が難しいのだと。ね。どんな事でも喜びで受けさせて頂く稽古。ね。けれどもやはり、道理を聞くと喜ぶのが本当だけれども、喜べない。ね。ならいかにすればそれが喜べれるかと一段と信心修行を進めて、ね、成る程「下から上へ水を流すように難しい」。けれどもそこんところを辛抱していくうちに徳が受けられる。だから結局ね、思うようにならない願っても右と願えば左となると、右が左左が右といったような時にはいよいよ力を下さろうとしておる時だと一つ分らなければいけません。
ね。いよいよお徳を頂かせて頂くための働きがあっておる時だと悟らなければいけません。それをどうしてだろうかというようなことであっては繰り返し繰り返しいつまで経っても徳にならない。それを辛抱していかなければ徳は受けられない。ね。そこにははあーこれがお徳というものであろうかと思われるように、普通の人ならばね、イライラしたりモヤモヤしたり悲しかったりするところであろうけれども、それが喜びで受けられておる自分というものを私は見た時にです、これがお徳というものだと。これがいよいよ大きなものに育っていかなければならんのだと言うことをです分っていかなければならない。
病気災難の根は切れる、病気災難の根はいつまで経ってもきれん。そういう信心の中からそういう病気災難の根が切れるおかげ、というのは果たして私共の行く手にです、その病気災難といったようなものが根絶してしまうだろうか、思うてみなければいけません。そんなことはない。やっぱり病気もあれば災難もある。信心しておってもやはり雨も降れば風も吹く。お徳を受けておっても同じ事。ね。けれどもその降っても照ってもね、またはその吹いてもです、折れんですむ、濡れんですむ、おかげそれが傘一本である。ね。それがお徳である。それを喜びで受けれるのである。だから病気災難は根の切れたと同じ事になるのじゃなかろうかと思います。教祖様は「病気災難の根は切れる」というならずっと後はそこから頂けたら、平穏無事な日が続くと。ね。極楽のような毎日が続くという事ではないと思うのです。私共の心の中にある我情我欲の根が切れて参りますところからです、本当にわが身は神徳の中にいかされてあるだろうかという喜びが受けられるという事はそういう事になったら恵まれ続けに恵まれるというのではなくてです、神徳の中に生かされてある喜びを実感として、頂けれる。そこが吹いても又は照ってもそれも有り難く受けられる心が頂けれるという。それを私はお徳というのだとこう思う。
そういう事を私共は稽古しておるのだという一つの信心の間違いのない方向というものを定めておきませんと何とはなしに、心のそこにですね信心とはおかげを頂く事だと。いわゆるおかげというのはご利益を受けるために信心しておるのだというようなものがやはり暗にございます。それがいわば不愉快なことになったり、自分の分の悪い事になったりしますとです、いわゆるどうしてとなんとはなしにこれだけ信心しておるのにとかこれだけお願いしておるのにとすっきりしないものが生まれてくる。そういう時にです、信心とはそうではないのだと、信心とはどんな場合でも喜ばせて頂く稽古だと、それを心の中に繰り返させて頂いて、さあ、このもたもたした嫌な問題をね、どう、受けさせて頂くかとそこんところを大事にしていくという事が私は信心辛抱だと、辛抱して行くうちには徳が受けられる。ですからここんところはいつまで経っても繰り返しすっきりしたものになってこないなら本当だと。徳を受けてこそ初めてすっきりしてくるんだと。昨日高橋さんのお届けを聞かせて頂いてはあ、修行不足修行不足と私が心の中に思うた。というてそれをなら、あなたの修行が足らんからそん位な事にもたもたせんならんたいと言うたって余計にもたもたするだとこう。
まあ、それでもおかげを頂いてからはようございましたから弁当はまあ売れてしまいましたとこういうのである。時間が早かったからね。ですから本当を言うたらですね、昨日収めさせて頂いて途端にあの夕立でございました。本当にそのまま返品でございましたけれども、おかげを頂いてね、まあ、売れるだけは売れさせて頂きました。おかげを頂いて有り難うございますともうその、淡々としてというかね、心にそのスキッとしたものが残らない、で、そういうお届けが出来れる、口だけではいかん。ね、心から本当にそれを頂けれるような信心を頂かなければ本当の信心を頂く値打ちがない。ような気がするのですね。というてなら例えば心の中にはですね、これほどお願いしておるのにと思いながら、例えばなら私が今申しました通りのことを言うたところでお届けしたところで自分の心は救われ、助かっておりません。ね。ですからもう確かにどんな場合でもです、本当に右と願って左となるような場合でもです、よくそのこと自体というものを見つめさせてもらいますとここには神様のこういう演出があるこういう働きがある、こういう中にでも悲しい事だけれども、喜ばなければ御礼を申さなければおれないという事があるという事のある事だけは事実です。ただ、そこを追求しきってないだけの事です。神様のご都合ちゃこういういうなら、難儀災難といったような中にあっても、ね、神様がこのようにして神様の働きを感じさせてくださるという事がありがたいというようにですねおかげを頂かなければなりません。一番始めに申しましたこの御理解二十八節のいうなら、結論を先にもうしますというその事がです、ね、いわば答えはどういう事かと申しますと、どのような場合にでも喜びで受けさせてもらわなければならん。
夕べの御理解でしたけれども、「信心は話を聞くだけが脳ではない。わが心からも練り出せ」というあの御理解でしたが、あの、練り出した結果がですよね、喜びという答えになっていなかったらそれはそのいわば計算違いをして折る時だと。ね。それは二日かかるか三日かかるか分りませんよ。その計算が出来てしまうまでには。けれども、結局その練り出す、練り出してからこういう事が分かったという事はそれが喜びに繋がっておる事が分かったという事になからなければ本当の答えじゃないと言われておるくらいですからね、いよいよ一段と元気な心で、いわゆる最後に「一心に元気な心で、まめで繁盛するよう一心に願え」と「一心にまめで繁盛するよう元気な心で信心せよ」とこう仰せられますからね、私共がどういうような例えば災難であろうが難儀であろうがです、ね、それの受け方一つでです、それが、もう繁盛の基になるようなおかげを一つ頂きたい、願いたいですね。
どうぞ